2008年6月1日日曜日

★こんな伝説もあります。悩んでください。?(^^)?

 大昔は、このあたりは「都努の松原」と呼ばれる白砂青松の海岸で、入り込んだ入江によって天然の良港「務古水門」として栄えた土地だったようです。大和朝廷は、大陸から様々な技術者を積極的に日本に招き、先進の技術を取り入れようと活発に交流を重ねていたようです。
 
日本書紀には、渡ってきたのは兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織・漢織とよばれる4名の工女で、一行のうち兄媛は胸形明神(むなかたみょうじん)の要請によって九州・筑紫潟の地に留まります。そのほかの工女たちは、長い航海の末に務古水門に到着しました。そのとき船を繋いだ松を「漢織呉織の松」といい、その木の下の池の清水を汲んで糸を染め、機を織ったためこの池のことを染殿池と呼ぶようになったようです。

っていうふうな言い伝えだから、どれが本当なのか混乱させられますが、でも べつに どれが本当であろうが良いです。本当な事を知ったところで何があるのでもありません。ただこの池が見るかぎり近辺の住民の気分をなごませてくれる池です。

でも、地域の発展のために、それを無くそうとする人がいるのも事実です。

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