2008年5月21日水曜日

\とりあえず、池はあるけど、ただの水たまりですョ/

大昔のことだから、本当の事は分かりません。
だいち、いろいろ違った情報はあります。
だから、どれが確かで、その情報は誰にも間違いとは言えません。
いくら日本書紀だろうが、実際に見てるわけじゃないし、それには、実際の事だと語っていても、どうでしょう?信じるしかできないでしょう。

大昔このへんは渡る舟の浜の港だったようです。平安中期の西宮市の南西部は、海岸線が深く入り込み、大社町の広田神社付近まで入り江になっていた。そして、瀬戸内に開いた口の東側に松原天満宮が、西側に西宮えびす神社が鎮座し、この西宮の浜と広田神社との間を舟で往来していたのである。戸田は西宮えびす神社付近だったようです。
 広田神社の末社の一つとされている松原天満宮は、(その染殿池の斜めちょっと向かいに松原天満宮がある。)菅原道真が太宰府左遷の際に立ち寄った地と伝えられ、その門前には「史蹟、漢織呉織の松」の碑が立ち、以前は松の大木が茂っていたのである。4世紀ごろ、呉の国から迎えた漢織、呉織らの縫工女が乗った船のとも綱をこの松の木につないで、上陸したとされている。松の木の傍らにきれいな水の湧く小さな池があり、 縫工女がこの水で糸を染めたので(染殿池そめどのいけ)と呼んだという。

そこに行くにはJR 西宮駅から南へ約500mぐらいで、松原天満宮があり、その南側に「染殿池」があるけど、わかりにくです。だって、ただの古びた水たまりだし、道路から放れているし、・・・でもただ、公園の隅にあります。(松原公園)
大昔に、そこで、ある女の人が布を織り、「衣掛けの松」で干したというのである。
[4世紀の頃、大和朝廷では、国力の充実と発展をはかるため、中国大陸から文物を輸入し技術者を招いていました。その頃、呉の国から向かえられた漢織(あやはとり)、呉織(くれはとりという二人の縫工女が、武庫の港に上陸し、このあたりの松原で休息したが、そのときに、かたわらの松に身を寄せて、はるかな故国をしのんだという、かってここにあった大きな松の木が、その松だと伝えられた漢織の松だと呼ばれていたそうだ。また彼女らが、その松のそばで糸を染めたり布を織ったりしたということから、この池を染殿池というようになったと伝えられてるようだ。でも、それとは違う事も沢山ある。例えば、二人じゃなく4人の工女とか、松の木じたいで糸をつくったのか・・・・・どれがれ信実なのか、深く考えない方が良い、]べつに知ったところで、何の得もないでしょう?

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