2008年6月1日日曜日

★こんな伝説もあります。悩んでください。?(^^)?

 大昔は、このあたりは「都努の松原」と呼ばれる白砂青松の海岸で、入り込んだ入江によって天然の良港「務古水門」として栄えた土地だったようです。大和朝廷は、大陸から様々な技術者を積極的に日本に招き、先進の技術を取り入れようと活発に交流を重ねていたようです。
 
日本書紀には、渡ってきたのは兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織・漢織とよばれる4名の工女で、一行のうち兄媛は胸形明神(むなかたみょうじん)の要請によって九州・筑紫潟の地に留まります。そのほかの工女たちは、長い航海の末に務古水門に到着しました。そのとき船を繋いだ松を「漢織呉織の松」といい、その木の下の池の清水を汲んで糸を染め、機を織ったためこの池のことを染殿池と呼ぶようになったようです。

っていうふうな言い伝えだから、どれが本当なのか混乱させられますが、でも べつに どれが本当であろうが良いです。本当な事を知ったところで何があるのでもありません。ただこの池が見るかぎり近辺の住民の気分をなごませてくれる池です。

でも、地域の発展のために、それを無くそうとする人がいるのも事実です。

2008年5月21日水曜日

\とりあえず、池はあるけど、ただの水たまりですョ/

大昔のことだから、本当の事は分かりません。
だいち、いろいろ違った情報はあります。
だから、どれが確かで、その情報は誰にも間違いとは言えません。
いくら日本書紀だろうが、実際に見てるわけじゃないし、それには、実際の事だと語っていても、どうでしょう?信じるしかできないでしょう。

大昔このへんは渡る舟の浜の港だったようです。平安中期の西宮市の南西部は、海岸線が深く入り込み、大社町の広田神社付近まで入り江になっていた。そして、瀬戸内に開いた口の東側に松原天満宮が、西側に西宮えびす神社が鎮座し、この西宮の浜と広田神社との間を舟で往来していたのである。戸田は西宮えびす神社付近だったようです。
 広田神社の末社の一つとされている松原天満宮は、(その染殿池の斜めちょっと向かいに松原天満宮がある。)菅原道真が太宰府左遷の際に立ち寄った地と伝えられ、その門前には「史蹟、漢織呉織の松」の碑が立ち、以前は松の大木が茂っていたのである。4世紀ごろ、呉の国から迎えた漢織、呉織らの縫工女が乗った船のとも綱をこの松の木につないで、上陸したとされている。松の木の傍らにきれいな水の湧く小さな池があり、 縫工女がこの水で糸を染めたので(染殿池そめどのいけ)と呼んだという。

そこに行くにはJR 西宮駅から南へ約500mぐらいで、松原天満宮があり、その南側に「染殿池」があるけど、わかりにくです。だって、ただの古びた水たまりだし、道路から放れているし、・・・でもただ、公園の隅にあります。(松原公園)
大昔に、そこで、ある女の人が布を織り、「衣掛けの松」で干したというのである。
[4世紀の頃、大和朝廷では、国力の充実と発展をはかるため、中国大陸から文物を輸入し技術者を招いていました。その頃、呉の国から向かえられた漢織(あやはとり)、呉織(くれはとりという二人の縫工女が、武庫の港に上陸し、このあたりの松原で休息したが、そのときに、かたわらの松に身を寄せて、はるかな故国をしのんだという、かってここにあった大きな松の木が、その松だと伝えられた漢織の松だと呼ばれていたそうだ。また彼女らが、その松のそばで糸を染めたり布を織ったりしたということから、この池を染殿池というようになったと伝えられてるようだ。でも、それとは違う事も沢山ある。例えば、二人じゃなく4人の工女とか、松の木じたいで糸をつくったのか・・・・・どれがれ信実なのか、深く考えない方が良い、]べつに知ったところで、何の得もないでしょう?

自由です。